それは無神経って事だ(TVアニメ「氷菓」第18話「連峰は晴れているか」より)

TVアニメ「氷菓」第18話「連峰は晴れているか」(TOKYO MXにおいて8月30日に放送されたものを視聴)の最後の方の主人公「折木奉太郎」の台詞から、二点「思い出し怒り」する事柄があったので、ここに記しておきたい。これはオタクとしての「気の持ち様」の話であって、アイマスに関連する話ではない。

「実際ああ言う事があったのに、『小木はヘリが好きだったなー』なんて、気楽には言えない。それは無神経って事だ。流石にそれは気を付けるさ。人の気も知らないで、と言う感じだ」
(TVアニメ「氷菓」第18話「連峰は晴れているか」より)

この台詞を聞いて、まず思い出したのが、これ、

第146回芥川賞を受賞した田中慎弥さんの受賞記者会見のやりとりについて、「コミュ力の低い不機嫌メガネ男子」として萌えている人達の反応をまとめたページだ。田中慎弥さんの受賞会見自体、地上波各局で一斉に取り上げられたために大きな話題となり、あそこで纏められている人達に限らず、オタ女子界隈では割と一般的に見られた反応だった。

だが、当時の私はあの様な「田中慎弥はコミュ力の低い不機嫌メガネ男子」と言う断定的言及に対し「無神経な事を気楽に言ってやがる」とイラッとしていた。と言うのは、この時に田中慎弥さんが置かれていた状況を考えれば、彼を「コミュ力が低い」等と評する事は全くの勘違いだと思うからだ。

と言うわけで、まずはこの時に田中慎弥さんが置かれていた状況から説明させてほしい。
この「第146回芥川賞」は、受賞作が決まる前の最終選考の時点から、選考委員の一人である元作家の石原慎太郎が、選考の場ではなく報道の前で「最終選考エントリー作品全て」を大っぴらにdisりまくっていた。
ちなみに、その時の石原慎太郎の選評はこちら。

選考が終わる前に報道の前で色々と語っていたのは石原慎太郎選考委員だけだったために、報道においてはバランスもへったくれも無く「選考委員が今年のエントリー作品全てをボロクソに中傷している」と言う形で世に広まった。ダメ押しで、石原慎太郎選考委員は受賞作が決まった時も、報道のTVカメラの前では「俺は全然いいとは思わないけど、他の選考委員がいいって言ってて仕方ねぇから賞をくれてやるよ」と言う態度だったと記憶している。

私は、これは選考委員としては論外の異常な態度だと感じた。
本当にいいと思う作品が無かったのであれば、ただ「該当作なし」を主張するべきだ。文学賞とは優れた作品や作家を賞賛するためのものであって、disりながらお情けで恵んであげるものでは断じてない。賞を贈る側としては考えられない侮辱的な態度である。
(余談ながら、私の主観的憶測では、石原慎太郎と言う元作家は自尊心が高過ぎて、自分の作品以外は肯定できないのだと思っている。)

兎も角、あの様な状況で受賞者が「有難うございます。嬉しいです」なんて言ったら、作家としてのプライドを捨てる事になる。むしろ、田中慎弥さんは怒るべき状況だった。

だがその一方で、彼がもし怒って受賞拒否をしていたら、出版社や担当編集者、石原慎太郎以外の選考委員等々、彼の作品を評価し、支援するたくさんの人達の顔を潰す事になる。
そこで彼は、石原慎太郎を盛大にdisりつつ「仕方ねぇから貰ってやるよ。嬉しくないけど」と言う態度を取らざるを得なかったのだろう。私はそう読み取った。

彼を「コミュ力が低い」と評した人達は、コミュ力が高い人間ならあの状況でどの様に対応すると考えたのだろうか?
例えば貴方が尊敬している大好きなクリエイターが、石原慎太郎にボロ糞に言われても、愛想笑いをしながら媚びるような態度で応じていたら、貴方はそのクリエイターの事をどう思うだろう?
「あれだけ言われても笑って聞き流せるなんて大人だな。コミュ力が高いな」と?
『侮辱されても我慢して愛想笑い』なんて会社員なら誰でもできる事だろう。
つまりそれは大人としては極々普通の態度であって、尊敬に値する様な特別な態度ではない。
そんなものは、断じて、コミュ力の高い態度では在り得ない。

受賞会見が行われる前は、私はあそこで受賞者が取れる態度は「ぶち切れて受賞拒否」か「担当編集者が代理で受賞式に出るが、作家本人は記者会見を拒否して雲隠れ」の二択だと思っていた。人前に好んで姿を晒さない作家なんて幾らでも居るし、どんな理由であれ「怒っている姿」が第三者の目には醜態として映るのは明らか。であれば、「人前で怒ってみせるぐらいなら、そもそも人前に出ない」と言うのは「人並みのコミュ力を有する作家」であれば至って合理的な判断と言える。
正真正銘コミュ力の低い私には、彼の『作家として譲ってはいけないプライド』と、彼を応援する『周囲の人々の立場』を両方とも守るルートがあるとは想像もできなかった。彼のあの態度の裏のバランス感覚を「コミュ力」と言わずして何と言うのか。

あれを「コミュ力が無くてぶっきらぼう」等と評するのは、全然「文脈」を、彼の置かれた状況を読んでいない。彼は深く葛藤し、よくよく考え尽くした末に、ストレートな気持ちを抑え、あの様な態度を選択したのだろうに、それを「どうしていいかわからなくてぶっきらぼうになる」とは、馬鹿にするのもいい加減にしろ、と言う感じだ。

この様な「文脈を読まないで、受け手の都合の良い(より美味しい)様にこじつける」ところが生半可なオタクの悪いところではないだろうか。(無論、自戒を込めての話。)

同様に「文脈を読まないでこじつける」例に「Axis powers ヘタリア」がある。「ヘタリア」は20世紀前半の国民性ジョークを元ネタとする「国擬人化」作品であり、その名は「ヘタレなイタリア」に由来している。
(註:国民性も国家の構成も時代によって変化するため、全ての時代に適用できる国民性ジョークと言うのは存在しない。また、その時代に国際社会において他の国家・民族と比較可能な「特徴的な印象」を持たれていない国家・民族についても国民性ジョークは存在しないはずである)
(「ヘタリア」自体は元々は軍事ネタにおいて産まれた造語だが、軍事クラスタがイタリアについて、これから述べる「誤読」をしているかどうかは存じ上げない)

と言うわけで、今度は「イタリアの国民性」の「文脈」だが…、イタリアは19世紀半ばまで都市国家が乱立する状態であったため、伝統的に「都市に対する帰属意識」は強いが「国家に対する帰属意識」は弱かったと言われている。イタリア人の「国家に対する関心の薄さ」がムッソリーニの独裁を許したし、イタリア人はムッソリーニの先導する「世界の中で国家の覇権を争う戦争」に本気にならなかった。
イタリア人は国家に対する帰属意識が薄かったために、「国家のため」には本気では戦わないのだ。国家ではなく、彼らが帰属意識を持つ「都市」や家族のためであれば、本気を出して幾らでも残虐になれるイタリア人達を、単に「不本意に駆り出された北アフリカ侵略に対するモチベーションがえらく低くて全然やる気を見せなかった事」を以ってヘタレ呼ばわりするのは、明らかに文脈の読み違いだろう。戦うための価値観が、やる気スイッチの発動条件が、同時代の他の国々とは少し違ったと言うだけの話だ。
(ヘタリアに関してはもう一つモヤモヤしている事があるが、本題から少しずれて話を広げる事になるのと、特定作品を攻撃する意図では無く、今回は「読み手の態度」についての話なので、ここには記さない。)

不機嫌眼鏡男子にしてもヘタリアにしても、「フィクションとして楽しむ」事は誰にも否定できない。しかし、そこに実在のモデルが居る場合、自分達が楽しむために施した「事実に基かない勝手な改編行為」(言わば、現実・史実に対する二次創作)が、モデルとなった誰かの尊厳や真摯な想いを踏み躙っている事に対する「後ろめたさ」を、常に意識し、抱えているべきではないか――それこそが「(二次創作を楽しむ上で)原作を尊重する」態度なのではないか――と、私は思うのだ。

現実的に考えて、断片化された情報のみを都合良く摘み食いしていれば、文脈を見落としてしまう事は往々にしてあるだろう。せめて、それを指摘して貰える環境に身を置きたいものである。同次元で同レベルの「生半可なオタク」のみに囲まれていれば、永遠にその過ちに気付く機会を持てない。

『田中慎弥さんは、侮辱された事に対する怒りを抑え、自分と周囲の人達のプライドを守るために、あの様な態度を取らざるを得なかったのであって、コミュ力が低いためにあの様な会見になったわけではない』
『20世紀前半のイタリア人は「愛する家族と郷土を守るため」ではない大義の無い戦争に対し無関心だったのであって、ヘタレて世界大戦中の北アフリカの砂漠の真ん中でパスタを茹でていたわけではない』

これらの主張も、「些細な事だ、どうでもいい」、そう思われるかも知れない。
きっと、この様な気付かれず見過されている誤読なんて、他にも幾らでも在るのだろう。
しかしそれでも、私は、「氷菓」の折木奉太郎と同じ様に思うのだ。

「それは無神経って事だ。流石にそれは気を付けるさ。人の気も知らないで、と言う感じだ」

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