TVアニメ「Wake Up,Girls!」 第2話

テレビ東京での放送を録画で翌日に見ていて、感想もリアルタイムで書いてはいたんですが、あまりにもネガティヴな内容になってしまったため、公開を自重していました。
もうそろそろ世間一般での評価も固まっていると思うので、ぼちぼち公開。

状況は好転しました。
プロット(枠組み・筋書き)レベルで見ればお世辞にも良い出来ではありませんが、第一話の「即切りでもおかしくないような」惨憺たる状況に比べれば、今回は(プロット以外は)かなりマシ。
今の状態ならば、先への期待が持てます。

註:
欝要素が比較的好物である私の感想です。
欝要素を見たくない人は、WUG自体やめといた方がいいと思う。
また、今期の他の深夜アニメ作品に比べれば、かなり評価基準が甘いです。
(劇場版を見ていなくても、期待して待っていた分のサンクコスト効果が生じて以下略。)

感想の前に…

「出来が悪くても第三話までは我慢して見て、それから判断」なんてのは、5年前、10年前の感覚だと思います。もしも制作側が視聴者に対してその様な甘い期待をしていたのであれば、それは時代への適応ができてない。
独り善がりの芸術家気取りなら兎も角、視聴者と向き合う覚悟があるなら、「番組過多」と言う視聴者のおかれた状況を踏まえた作品作りをお願いしたい。

第2話「ステージを踏む少女たち」

で、第二話なのです。
例によって作画もあまりいいとは言えません。特にキャラクター。
まぁ、第一話よりはずっとマシですが、

一番手抜きと感じたのは、白ビキニを着せられて露になった体つき、残念な作画でした。
正直「リアルじゃない!」と感じましたが、第一話のスカートの「あんな捲れ方はしないだろ」と同じで、あまり熱弁すると「スカートの捲れ方やビキニを着たティーンの体つきに一家言あるキモイ人」体裁になってしまうので、もにょもにょ…。
ツッコミどころの多い雑な絵を描いておいて、迂闊に突っ込むと「スカートとかビキニで真剣になっちゃってきめぇw」と晒し上げる罠なのかも知れません。
ぐぬぬ、またしても炎上商法か、侮れぬ…。

今回は、(恐らく)設定・絵コンテのレベルで気になる部分がありました。
怪しげな自称プロデューサーの取ってきた健康ランド的な施設でのお仕事ですが、まず、主にお仕事を行っていた部屋(←「別の部屋である事を示す演出」が無いので同じ部屋だと判断しています)の間取りがシーンによってちょくちょく変わる。縦横に伸びたり縮んだりする。シャフトか!

店長の台詞に因れば、あの施設ではゲストを呼んだ演芸ショーが定期的に行われているような話になっていますが、それならばそれで、そのためのステージと最低限の音響機器はあるはずでしょう。
ステージと言っても畳敷きの部屋の中で僅か10cmほど高くしているだけの板張りやフェルト張りのスペースになるかも知れませんが、少なくとも「小規模の音響機器も無い部屋の畳の上で裸足で歌って踊る」描写にはならないのでは?

「演芸ショーを行えるように誂えた部屋」のイメージが出来なかったのかな?
都合よくその様な部屋を持つ施設がロケハンできなかったのか、あるいは、ロケハンした施設の「演芸ショーを行えるように誂えた部屋」が作り手のイメージよりも整い過ぎていて、もっと貧相にしたかったのかは分かりませんが、そこは「ロケハンした実在の部屋」を想像でアレンジして描くべきところではないのか。
京都アニメーション作品では数年前まで「この建物の配置は無いだろう」みたいなものをよく見かけたので、京アニ出身者特有の「資料の建物や部屋の構図・構成をいじって別の架空の背景へと作り変えるのが苦手」みたいな傾向があるのかも知れません。
まぁ、そもそも部屋の間取りがぐにょぐにょ変化するようではロケハンもへったくれもありませんが、

第一話では開始時点で既に失踪していて軽くポルナレフ状態だった存在「資金を持ち逃げした社長」が、第二話では戻って来ました。
これ(この展開)はこれで、軽くポルナレフ状態ですね。すぐに戻すなら何故消した、と。
恐らく、劇場版における「大きな障害」として「社長による資金持ち逃げ」と言う展開を組んだはいいが、劇場版とテレビ版を通した大きなプロットとして考えていなかったので、テレビ版の脚本を書く段階になって都合が悪くなってしまったのではないかと。

そもそも、業務上横領となれば刑事事件化は不可避、最早「事務所の存続」どころではないわけで、悪びれもせずノコノコと戻って来たこの瞬間、一気にリアリティレベルがギャグコメ相当(例:こちら葛飾区亀有公園前派出所)に落ちた事を、制作側は理解してるんでしょうか。
これが「演出による誇張表現」で済まされるのは、ギャグ漫画の中か80年代だよ…。

結局、「劇場版とテレビ版」と言う構成になった事が全てのネガティヴな事態の原因だったんじゃないかと思いますが…。
どこかで引き返せなかったのかなぁ。勿体無い。

それはそれとして、この社長、前述の「怪しげな自称プロデューサー」と同様にクズ大人の見本みたいな存在ですが、脚本と演者(CV:日高のり子)の力で、辛うじて憎めないキャラクターに仕上がっている事にびっくり。
第一話と、オープニングで使われている劇場版ダイジェスト映像からは、もっとムカつくキャラクターをイメージしていました。

この社長を「無責任」と責める島田真夢と、言い返して「小娘」呼ばわりする社長。
酷く険悪な仲ですが、両者の人間的成長が描かれる構図…を予感させる台詞回しでした。
序盤はこーゆーのが大事ですよね。「この先の物語を最後まで見届けたい」と思わせるために、

一方、酷いお仕事に心挫け、自分のホームグラウンドたるメイド喫茶へと戻った岡本未夕。
それを連れ戻しに来て、メイド喫茶での岡本未夕のステージを見学する一部メンバー。
岡本未夕を励ますメイド喫茶の客達を見ての会話。

「ファンってこんなに優しいんだね」
「…みんな、あったかいな」
「え?」
「なんでもない」

ここは、島田真夢が「やさしくない、あたたかくないファン」を知っている、と言う描写なんでしょうね。

この第二話の時点では、ファンではない大人達は片っ端から、何処までも醜く描かれている。
対照的に、ファン達はあたたかく支えてくれる存在として描かれている。
恐らく物語の序盤は、冷たく醜い大人達を、自分達の味方、あたたかなファンへと変えて行く様子が描かれるのではないかと思います。

ですが…、このファンの描写はどう見ても「前振り」だよなぁ。
「上げて落とす」じゃありませんが、あたたかかったファンが手のひらを返し、島田真夢の知っている「やさしくない、あたたかくないファン」へと変わってしまう様も、物語の中盤以降では描かれる事でしょう。

リアルな××、とか言う約束されし敗北

「リアルな」と言い出した時点で負けフラグだったんじゃねーのか、
と思ったので、つらつらと書き記しておきます。

第一に、他の作品を指してリアルじゃないと言い、自分はリアルな作品を作るんだ、と。
真っ先に世間一般のアニオタ界隈で見られた反応は、「え?それって需要あるの?」と言うものでした。

実際ね。どの作品も「リアルであろうとして」作られているわけではない。
描写をどんどん細かくし、そのフィクションの中の道理を詰めていく事で、《物語の嘘》が上手に誤魔化されて違和感無くフィクションに没頭できると言う「リアル」は在りますが、現実のそれに即していると言う意味での「リアル」は、制作者側も視聴者側も求めていない。
一般的には視聴者から上がる「嘘っぽい」「リアルじゃない」は、「ディテールが甘かったり矛盾が目立つために違和感が強く、そのフィクションに没頭する事を妨げている」と言う意味ですよ。

でも、まぁ、それはいいとしましょう。
芸術家気取りなら、世間が求める作品を作るのではなく、自分が作ったものを後追いで世間に求めさせると言う気概を持っていて然るべきと思います。
そんなものが商業ルートで成立するのかどうかと言う話もありますし、「求められていない」事を承知の上で商業ルート上で始めた以上は、「求められていなかったモノを世間に求めさせる」事が出来ずに商業的に失敗となった時に「世間に媚びなかったから負けた」なんて言い訳は出来なくなりますが、

第二に、じゃあリアルって誰のリアルなの?
メジャーアイドルにはメジャーアイドルの、ローカルアイドルにはローカルアイドルのリアルがあります。
秋葉の地下アイドルを取り上げても、メジャーを目指しているアイドルとそうでないアイドルがいるでしょう。企業プロモーションユニットなんてものもありますし、「あれは税金対策だから売れなくてもいいんだ」なんて噂されていた不思議なアイドルプロジェクトもありました。
みんな背景や事情は異なる。誰か一人を取り上げてそのまま描き写すドキュメンタリーこそが真のリアルであって、幾つかの異なった立ち位置のアイドルを研究し、それらを混ぜて架空のアイドルを作り出したら、それはもはや微塵もリアルではなく、ほぼファンタジーです。『AKBの背景とももクロの背景を併せ持つアイドル』『私立恵比寿中学とSTAR☆ANISを足して2で割ったアイドル』なんて「if」であっても成立させる事(そのユニット成立経緯にリアリティのある設定を構築する事)は難しい。

リアルとは、人ひとりひとり、個々人のものでしかない。
あの監督にとってのリアルは「アイドルオタクを齧った俺のリアルなルサンチマン」ですし、あの監督には「アイドルオタクを齧った俺のリアルなルサンチマン」以外の何かが描ける道理は無さそうです。
もしもそれ以外の視点を借りて来て作品を作るとすれば、事前のインタヴューでも「自分の言葉」では語れなかったのではないでしょうか。ご自身にアイドルの経験があるわけでもなく、今回初めてアニメ制作の片手間でアイドルプロデュースの真似事を始めたってだけなんですから、

「ヤマカン視点(=アイドルオタク視点)のアイドル」をリアルと主張されても、これだけ多様化した世の中ですから、同系統のアイドルオタクの視点でさえ「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前が体験したライブ現場ではな」としかなりませんよね。

第三に、そもそも客観評価のリアルって有り得るの?
繰り返しますが、リアルとは、人ひとりひとり、個々人のものでしかありません。
「誰かのリアル」を描く事はできても、「客観的にリアル」はそもそも有り得ないんじゃないの、と。

以下は、喩え話です。
劇場版を見てないので各キャラクターの背景はまだ把握していませんが、雰囲気的に、震災被災者もいそうだな、と感じました。(仮設住宅を思わせる描写があったような…)
もしかすると、一家で被災して未だ仮設住宅に住んでいる子もいるかも知れません。親が心身を病み、働かずに給付金で暮らしているかも知れない。

「きれいな話」を書こうとするなら、あの子達がアイドルとして苦難に立ち向かい未来を切り開く姿を見て、励まされて立ち直り、再び職を得て生活を立て直すかも知れません。
「きれいごとじゃない話」を書こうとするなら、そんな姿を見ても立ち直ることは出来ず、むしろ、家庭環境が荒れてアイドル活動の妨げになるかも知れません。
どちらかがリアルでどちらかがリアルではない、と言うものではありませんよね。
今もなお生活を立て直せていない人にとっては、前者の「きれいな話」を「そんな都合のいい話があるか、リアルじゃない」と感じるかも知れない。一方、生活を立て直した人にとっては、後者の「きれいごとじゃない話」を「皆が皆そんな酷い状態に今もあるわけではない、リアルじゃない」と思うかも知れない。
それぞれに、個々人のリアルに基いて評価するわけです。

「きれいな話ばかり書きたくないんだ。現実はもっと厳しいんだ。俺は皆が不快に思う事でも恐れずに描くんだ」…と言うのは、書き手の中で取捨選択した基準の言い訳でしかなく、その様な意図があるから「きれいごとじゃない話」の方がリアル、と言う根拠にはなりません。

最初に書いた通り、フィクションにおいては、描写をどんどん細かくし、そのフィクションの中の道理を詰めていく事で、《物語の嘘》が上手に誤魔化されて違和感無くフィクションに没頭できるようになります。
しかし、我々が良く知る現代の現実世界を舞台にしている場合、その描写や設定のひとつひとつが「作者がこう設定したからこうなのだ」ではなく、「現実世界の表現や道理に即しているか」のチェックを受ける事になります。

ファンタジー世界ならば「巨大な岩塊が空中に浮かぶ」仕組みを説明せずに「その様な世界なのだ。この世界とは異なる物理法則が設定されているのだ」でツッコミを免除されるところも、現実世界ではそうはいかない。
もちろん、現代の現実世界を舞台にしていても、それがフィクションである以上は《物語の嘘》は存在させる事ができます。
TVアニメ「ラブライブ!」であれば、「世は今まさにスクールアイドル戦国時代」と言う《物語の嘘》を視聴者は最初に飲んでいますので、その《物語の嘘》に付随するあらゆる設定は「現実世界との違い」のリアリティチェックを免除されます。

では、WUGにおいては?
実在する事務所ではなく、実在する人物ではなく、実在の出来事ではない。
それ以上の《物語の嘘》「こーゆー設定です」と暗に示されているのは、現実世界でAKBグループに位置付けられるものに別のユニット名が付いている、と言うぐらいのものです。
なので、彼女らが存在する世界の描写のほとんど大部分は、「現実世界の表現や道理に即しているか」のリアリティチェックを受ける事になります。
そして、チェックの基準・比較対象は、ひとりひとり異なるリアル(現実世界認識)そのものです。

卑近な例で言えば、前述の通り「業務上横領をやらかしておいて無傷で戻って来られるものかよ。ギャグ漫画じゃあるまいし」と言うのもありますし、この世界で現代の高校生の制服のスカートは第一話の映像のようなダンスであのように捲れたりはしない、あの捲れ方の表現はリアルではないと言う事は、私個人のリアル(現実世界認識)において明らかなわけです。
制服のスカートの裾が広がる様をあまり見ない人、そんなものを見たのはかれこれ50年ぐらい前かのう、と言う視聴者であれば、そこでリアリティチェックは発生しないかも知れません。
また、これがエルダー・テイルの世界や神聖エルダント帝国であれば、我々の世界と同じ物理法則が働いていない可能性があるので何とでも言い訳できるでしょう。

あるいは、

風が吹けば必ずスカートが捲れ、爆発に巻き込まれたら頭がパンチパーマになるような、ルパン三世やハイスクールD×D程度のリアリティレベルなのだ、と主張する事も出来ます。
そもそも、「リアルな」と主張さえしなければ、表現に対する「リアルでない」と言うツッコミはある程度免除されるはずです。

何故、作品内でそれなりのリアリティレベルを保てないくせに、「リアル」を主張するのか。
目に見える部分を全然リアルに描けないのに、人間関係や心情などの視覚的ではない関係性でリアルを主張しても、表現したい事に対して表現能力が足りてないと思いますし…。
そもそも、具体的で細かな部分以外の、大きな主語において「リアル」と言う言葉を使いたがるのって、実は「リアル」と言う言葉のニュアンスを分かってないんじゃないでしょうか?

なんだかんだ言っても最後まで見そうだよ

第二話では、希望の未来と絶望の未来、両方の伏線が引かれ始めたのを感じました。
こうやって物語への期待を高めていかないと、3ヶ月も追いかけてられないわけですよ。
プロット・作画・演出の残念さは兎も角、脚本はちゃんと仕事をしてくれた。
ならば、頑張って見ましょうか。

※ 私は鬱展開は割りと好きな方なので、鬱展開伏線も歓迎です。

まぁ、トータルで出来が悪いので、頑張らないと継続視聴の気力が萎えるってのも、どーなの?って話ですが。
フラクタルを最後まで見た人はこんな気持ちだったのかなぁ?

繰り返し言ってますが、このTVアニメの第一話は、即切りでも全然おかしくないレベルのクオリティです。
そこで切らずに第二話以降も見ていると言う事は、この制作陣に対して少なからず期待をしている、評価に下駄を履かせている、他の作品よりも贔屓目に見ている、…と考えて良いと思います。

でなきゃ、第一話で愛想を尽かし、その後は一言も言及しない、と言う態度になってるはずです。
Twitterでもブログでも、皆とっくにWUGに言及するのをやめているはずです。
実際にはどうですか? まだ言及されているでしょう?
無関心・無視する事が作品を商業的にも殺す事を理解していて、死んで欲しくないから皆が言及を続けている。

監督におかれましては「アンチのせいで正当に評価されてない」「本当の事を言ってオタクの自尊心を傷付けるから憎まれるんだ」等と己の不幸な境遇に酔うのではなく、貴方がこれまで幼稚な同属嫌悪で叩きまくって来たたくさんのオタク達が、とても寛容な、下駄を履かせた評価基準で以って、我慢強く暖かくこの作品を見守っているのだと言う事を自覚して頂き、その期待に応えて頂きたいと思います。
(待田堂子さんに期待してるだけ、と言う人もいるかもだけど…)

だから、クオリティこれ以上下げないでね。
無駄に大口を叩いているのは我慢するよ。そうしてないと彼は死んじゃうのだろうから、

余談

あとさ。
あの社長描写とそれをその様に設定した原作者は、【中小企業の経営者には『自尊心が肥大化するあまりに倫理意識が低く、「自分の会社」の内側で違法行為があっても社外に迷惑をかけなければ許されると思ってる犯罪者予備軍』が多い、と言う俗説】を裏付ける一例であるような気がしてならないよ。
作品の中の人物であれば「リアリティが無い」で済むけど、御自分の会社で迂闊な事をなされると手が前に回りますのでご注意頂きたい。
「俺の会社の金を俺がどう使おうが俺の勝手だ」はリアルでは通用しないのだぜ。

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