TVアニメ「Another」はミステリではない、よね?

以下のブログエントリに書かれている「ミステリとホラーは原理的に相反する」は、TVアニメ「Another」感じてたムズムズをこの上なく明快に説明してくれているなぁ、と。

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    この“「ミステリ」と「ホラー」は原理的に相反する”という箇所を、もう少し噛み砕いて説明しますと、“「ホラー」は読者に恐怖を与えるが、「ミステリ」はそうした恐怖へ合理的な解決をもたらす”がゆえに、片方の要素に比重をかければ、もう片方がなおざりになってしまうことを意味します。私が“「ホラー」の原理と「ミステリ」の原理は相容れない”と思ったのは、ひとえに、このためです。

少し前のNHK「MAGネット」でしたか、TVアニメ「Another」とTVアニメ「氷菓」をミステリとして並べてて、「おいおい、Anotherの何処がミステリだよ、どう見てもホラーじゃないか」と憤慨したのですよ。
ミステリの世界には酷い理不尽を並べ立てて「謎解きでござい」とドヤ顔する作家先生も少なからずおられる様ですが…

「超常現象による理不尽な害悪の恐怖」を題材として描くのは、ホラーとしては常道と言っていいでしょうけど、その恐怖の原動力である『理不尽さ』はミステリーの謎解きにおいてはアンフェアでしかありません。
「ノックスの十戒」でも戒めていますよね。まぁ、正直言えば「十戒・二十則を厳守すべき」等とは微塵も思っていないのですが、それは破れば破った分だけ、種明かしをする際に「無理矢理の辻褄合わせでスッキリしない」と言われる覚悟を持っていただきたい。これは伏線があったかどうかは関係無いです。伏線は『理不尽さ』を相殺しないから、

昔、知人から借りたミステリーに「部屋の入口に氷のブロックを積んで部屋を水で満たして水死させる密室殺人」と言うネタが出てきて、アホかと思いました。それが物理的に可能になるお膳立てを描き切ってからやれよ。実現不可能性では超能力や呪術と大差ねぇよ。
ミステリ作家を自称される作家先生は、実際に実験してみればいいんじゃないでしょうか。普通の部屋は水密性が無いでしょうから特殊な加工を施された部屋と言う事になる。それでいて登場人物は水密性に気付かれなかった事になる。氷のブロックもただ積んだだけでは水密性は期待できません。氷壁と部屋の壁との間の目張りはどうやったのか。一つの部屋を水で満たし、更に水を抜く手順と時間は現実的なものかどうか。一度水で満たされた部屋は家具や壁紙、家電、書籍にダメージがあり、様々な窪みに水が残るはずですが、水を抜いた後に「被害者が水死している事」以外のあらゆる「部屋が水に満たされていた痕跡」を、犯人以外の登場人物達が一見しただけでは気付かない程度に隠蔽できるのか。そして最後に、そこまで大仰で困難な仕掛けに動機・目的が噛み合うか…

良いミステリか否かは、読み終わった後に「謎の解決」が腑に落ちるか否かに掛かっていると思います。
理不尽が理不尽のまま、謎が謎のまま終わって解消されないのであれば、そんなのミステリじゃないでしょ?と言う話です。
犯人がパニックや錯誤と言った「言い訳」は無しに、他に目的を達成できる平易な手段が存在するにも関わらず故意に「不合理で極端にリスクの高い行動」を周到な準備の上で選択していたり、現実的にできそうも無い仕掛け・仕組みが謎解き時点で唐突に登場したら、無理矢理の辻褄合わせにしか見えず、腑に落ちません。
腑に落ちない結末しか用意できないのであれば、「ミステリ要素もある××」と他ジャンルに逃げておくべきです。「ミステリ要素も無くは無いホラー」それでいいじゃないですか。

初期から「××は誰?」と言う問いが提示されていて、登場人物の大多数がその特定を望んでおり、大なり小なりその事を表明までしていたにも関わらず、その××を知っていた△△が、最終話まで皆に対してそれを伏せる判断をしていた事に、全く合理性が無い。
故に、TVアニメ「Another」はミステリとしては残念な作品でした。

ちなみに私、ジャンルとしてのミステリは嫌いです。
ラノベ並みにハズレが多く、読み難い作品が多いくせに、最後まで読まずに投げて(駄作と評価してゴミ箱に放り込んで)はいけない作法があるじゃないですか。本当なら、ダメなものは最初の10ページでダメと言えなきゃいけないと思います。最後まで読まなきゃ評価してはいけないと言うルールだと、余程のマゾヒストじゃない限り『酷い駄文を我慢して最後まで読んだ苦痛と労力』が(サンクコスト効果により)肯定的な評価を強いてしまいますから。
既に評価の確定した、大勢が自信を持ってプッシュしている作品以外は、時間が惜しいので読みたくないです。

TVアニメ「Another」はホラーとしては楽しめましたが、これをミステリだと言われたら、前述の通り、オチの不合理性に納得できずに「1クール分付き合わせておいてなんだこのオチは」と怒ったと思います。
確かに○○が××である事の伏線は張られていましたし、見ていても「あぁ、これは××を暗示する伏線なんだなぁ」とは思いましたけど、「○○が××である事を知る△△の沈黙」と言う不条理が、伏線が最後にもたらしてくれるはずの納得感を上回っている。

例えて言うなら…、
「犯人は超能力者です!ほら、最初の章で左目を押さえて呻いている記述があるでしょう?これが彼が超能力者である事を示す伏線なんです!」
「…あ、そうなんだ。で、なんで彼はその超能力で身を守らなかったの?」
「よくぞ聞いてくれました! 実は彼の能力には制約がありまして…」
「その制約とやらは作中に書いた?」
「いえ、裏設定です」
「…アホか」

TVアニメ「Another」は作中に「○○が××である事を知る△△の沈黙」の理由が描かれてない(きっと原作では書かれているのでしょうね)、単なる不条理オチの、優れたホラー作品です。
ジャンル「ホラー」においては不条理オチが許されます。ホラーのオチが不条理で怒る人は居ません。

それは無神経って事だ(TVアニメ「氷菓」第18話「連峰は晴れているか」より)

TVアニメ「氷菓」第18話「連峰は晴れているか」(TOKYO MXにおいて8月30日に放送されたものを視聴)の最後の方の主人公「折木奉太郎」の台詞から、二点「思い出し怒り」する事柄があったので、ここに記しておきたい。これはオタクとしての「気の持ち様」の話であって、アイマスに関連する話ではない。

「実際ああ言う事があったのに、『小木はヘリが好きだったなー』なんて、気楽には言えない。それは無神経って事だ。流石にそれは気を付けるさ。人の気も知らないで、と言う感じだ」
(TVアニメ「氷菓」第18話「連峰は晴れているか」より)

この台詞を聞いて、まず思い出したのが、これ、

第146回芥川賞を受賞した田中慎弥さんの受賞記者会見のやりとりについて、「コミュ力の低い不機嫌メガネ男子」として萌えている人達の反応をまとめたページだ。田中慎弥さんの受賞会見自体、地上波各局で一斉に取り上げられたために大きな話題となり、あそこで纏められている人達に限らず、オタ女子界隈では割と一般的に見られた反応だった。

だが、当時の私はあの様な「田中慎弥はコミュ力の低い不機嫌メガネ男子」と言う断定的言及に対し「無神経な事を気楽に言ってやがる」とイラッとしていた。と言うのは、この時に田中慎弥さんが置かれていた状況を考えれば、彼を「コミュ力が低い」等と評する事は全くの勘違いだと思うからだ。

と言うわけで、まずはこの時に田中慎弥さんが置かれていた状況から説明させてほしい。
この「第146回芥川賞」は、受賞作が決まる前の最終選考の時点から、選考委員の一人である元作家の石原慎太郎が、選考の場ではなく報道の前で「最終選考エントリー作品全て」を大っぴらにdisりまくっていた。
ちなみに、その時の石原慎太郎の選評はこちら。

選考が終わる前に報道の前で色々と語っていたのは石原慎太郎選考委員だけだったために、報道においてはバランスもへったくれも無く「選考委員が今年のエントリー作品全てをボロクソに中傷している」と言う形で世に広まった。ダメ押しで、石原慎太郎選考委員は受賞作が決まった時も、報道のTVカメラの前では「俺は全然いいとは思わないけど、他の選考委員がいいって言ってて仕方ねぇから賞をくれてやるよ」と言う態度だったと記憶している。

私は、これは選考委員としては論外の異常な態度だと感じた。
本当にいいと思う作品が無かったのであれば、ただ「該当作なし」を主張するべきだ。文学賞とは優れた作品や作家を賞賛するためのものであって、disりながらお情けで恵んであげるものでは断じてない。賞を贈る側としては考えられない侮辱的な態度である。
(余談ながら、私の主観的憶測では、石原慎太郎と言う元作家は自尊心が高過ぎて、自分の作品以外は肯定できないのだと思っている。)

兎も角、あの様な状況で受賞者が「有難うございます。嬉しいです」なんて言ったら、作家としてのプライドを捨てる事になる。むしろ、田中慎弥さんは怒るべき状況だった。

だがその一方で、彼がもし怒って受賞拒否をしていたら、出版社や担当編集者、石原慎太郎以外の選考委員等々、彼の作品を評価し、支援するたくさんの人達の顔を潰す事になる。
そこで彼は、石原慎太郎を盛大にdisりつつ「仕方ねぇから貰ってやるよ。嬉しくないけど」と言う態度を取らざるを得なかったのだろう。私はそう読み取った。

彼を「コミュ力が低い」と評した人達は、コミュ力が高い人間ならあの状況でどの様に対応すると考えたのだろうか?
例えば貴方が尊敬している大好きなクリエイターが、石原慎太郎にボロ糞に言われても、愛想笑いをしながら媚びるような態度で応じていたら、貴方はそのクリエイターの事をどう思うだろう?
「あれだけ言われても笑って聞き流せるなんて大人だな。コミュ力が高いな」と?
『侮辱されても我慢して愛想笑い』なんて会社員なら誰でもできる事だろう。
つまりそれは大人としては極々普通の態度であって、尊敬に値する様な特別な態度ではない。
そんなものは、断じて、コミュ力の高い態度では在り得ない。

受賞会見が行われる前は、私はあそこで受賞者が取れる態度は「ぶち切れて受賞拒否」か「担当編集者が代理で受賞式に出るが、作家本人は記者会見を拒否して雲隠れ」の二択だと思っていた。人前に好んで姿を晒さない作家なんて幾らでも居るし、どんな理由であれ「怒っている姿」が第三者の目には醜態として映るのは明らか。であれば、「人前で怒ってみせるぐらいなら、そもそも人前に出ない」と言うのは「人並みのコミュ力を有する作家」であれば至って合理的な判断と言える。
正真正銘コミュ力の低い私には、彼の『作家として譲ってはいけないプライド』と、彼を応援する『周囲の人々の立場』を両方とも守るルートがあるとは想像もできなかった。彼のあの態度の裏のバランス感覚を「コミュ力」と言わずして何と言うのか。

あれを「コミュ力が無くてぶっきらぼう」等と評するのは、全然「文脈」を、彼の置かれた状況を読んでいない。彼は深く葛藤し、よくよく考え尽くした末に、ストレートな気持ちを抑え、あの様な態度を選択したのだろうに、それを「どうしていいかわからなくてぶっきらぼうになる」とは、馬鹿にするのもいい加減にしろ、と言う感じだ。

この様な「文脈を読まないで、受け手の都合の良い(より美味しい)様にこじつける」ところが生半可なオタクの悪いところではないだろうか。(無論、自戒を込めての話。)

同様に「文脈を読まないでこじつける」例に「Axis powers ヘタリア」がある。「ヘタリア」は20世紀前半の国民性ジョークを元ネタとする「国擬人化」作品であり、その名は「ヘタレなイタリア」に由来している。
(註:国民性も国家の構成も時代によって変化するため、全ての時代に適用できる国民性ジョークと言うのは存在しない。また、その時代に国際社会において他の国家・民族と比較可能な「特徴的な印象」を持たれていない国家・民族についても国民性ジョークは存在しないはずである)
(「ヘタリア」自体は元々は軍事ネタにおいて産まれた造語だが、軍事クラスタがイタリアについて、これから述べる「誤読」をしているかどうかは存じ上げない)

と言うわけで、今度は「イタリアの国民性」の「文脈」だが…、イタリアは19世紀半ばまで都市国家が乱立する状態であったため、伝統的に「都市に対する帰属意識」は強いが「国家に対する帰属意識」は弱かったと言われている。イタリア人の「国家に対する関心の薄さ」がムッソリーニの独裁を許したし、イタリア人はムッソリーニの先導する「世界の中で国家の覇権を争う戦争」に本気にならなかった。
イタリア人は国家に対する帰属意識が薄かったために、「国家のため」には本気では戦わないのだ。国家ではなく、彼らが帰属意識を持つ「都市」や家族のためであれば、本気を出して幾らでも残虐になれるイタリア人達を、単に「不本意に駆り出された北アフリカ侵略に対するモチベーションがえらく低くて全然やる気を見せなかった事」を以ってヘタレ呼ばわりするのは、明らかに文脈の読み違いだろう。戦うための価値観が、やる気スイッチの発動条件が、同時代の他の国々とは少し違ったと言うだけの話だ。
(ヘタリアに関してはもう一つモヤモヤしている事があるが、本題から少しずれて話を広げる事になるのと、特定作品を攻撃する意図では無く、今回は「読み手の態度」についての話なので、ここには記さない。)

不機嫌眼鏡男子にしてもヘタリアにしても、「フィクションとして楽しむ」事は誰にも否定できない。しかし、そこに実在のモデルが居る場合、自分達が楽しむために施した「事実に基かない勝手な改編行為」(言わば、現実・史実に対する二次創作)が、モデルとなった誰かの尊厳や真摯な想いを踏み躙っている事に対する「後ろめたさ」を、常に意識し、抱えているべきではないか――それこそが「(二次創作を楽しむ上で)原作を尊重する」態度なのではないか――と、私は思うのだ。

現実的に考えて、断片化された情報のみを都合良く摘み食いしていれば、文脈を見落としてしまう事は往々にしてあるだろう。せめて、それを指摘して貰える環境に身を置きたいものである。同次元で同レベルの「生半可なオタク」のみに囲まれていれば、永遠にその過ちに気付く機会を持てない。

『田中慎弥さんは、侮辱された事に対する怒りを抑え、自分と周囲の人達のプライドを守るために、あの様な態度を取らざるを得なかったのであって、コミュ力が低いためにあの様な会見になったわけではない』
『20世紀前半のイタリア人は「愛する家族と郷土を守るため」ではない大義の無い戦争に対し無関心だったのであって、ヘタレて世界大戦中の北アフリカの砂漠の真ん中でパスタを茹でていたわけではない』

これらの主張も、「些細な事だ、どうでもいい」、そう思われるかも知れない。
きっと、この様な気付かれず見過されている誤読なんて、他にも幾らでも在るのだろう。
しかしそれでも、私は、「氷菓」の折木奉太郎と同じ様に思うのだ。

「それは無神経って事だ。流石にそれは気を付けるさ。人の気も知らないで、と言う感じだ」

メモ

DS:ストーリー「水谷絵理」現時点での総括
更に追記した。
案の定、無駄に長くなってしまった。ここらへんにしとこう。

まだ書いてないもの

ミンゴス本人名義シングルの感想

今後の予定

だらだら駄文書いてるせいでDSのプレイが遅れてる。
CD「DREAM SYMPHONY 02 秋月涼」が出るまでには涼のストーリーを終わらせなきゃ。
いっそ仕事休みたい。

10月25日に東京ビッグサイトで行われる、
「DreamParty東京2009秋」の5pbステージには行きません。
一曲だけじゃなぁ。俺的にはミンゴス以外に見たいものが何も無いんだもん。
http://5pb.jp/event/doripa2009autumn/live/

検索ワードより

水曜のマスステの影響で「中村先生 ボーカルアクシデント」が増えてます。

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電撃オンライン:
『アイマスSP』新DLCでPが千早に変身!? 『マ王』仕立て屋・杏仁豆腐の衣装も!!
また深夜更新か。

アイドラは“Pが千早で千早が……”というタイトル。その名の通り、千早とプロデューサーの心身が入れ替わってしまう! しかも千早は、真&やよいと一緒に海へ遊びに行く予定。大騒動の結末は、はたして?

アサミンゴスP公式化ですね。わかります。